何者でもない者の日記

旧タイトルは「法学徒って名乗りたい」。

好き嫌いについて

 どんなものに対しても好きな部分と嫌いな部分はある。全部が好きなんて嘘だろう。もし嫌いなところがないとしたら、対象への理解が足りていないのだと思う。

 

 私は好きなものに対する嫌いという感情に鈍感である。意図的に見ないようにしているのかもしれない。その方が楽だから。単純な人間なので好きと嫌いが共存するとどちらに振るべきか処理しきれなくなる。面倒くさがりだから悩みたくない。嫌いな部分が少しでもあると嫌いになってしまうかもしれない。だから、嫌いなところに目を向けない。多少嫌でもなかったことにしてしまう。許容するのではなく、気付かない振りをするだけ。

 

 でもこれではいけないと思った。嫌いな部分も含めた上で好きになるべきなんじゃないか。嫌なところがあるからこそ、好きなところがより輝くのではないか。好きな部分だけ見て好きと言うより、嫌いな部分もあるけどそれでも好きだと言う方が、より大きな愛と呼べるのではないか。

 

 それに、嫌いな部分も紛れもなく対象の一要素である。それを無視してその対象を語ることはできない。全部の要素を勘案した上で好き嫌いを判断するべきだろう。

 

 これは自分自身に対しても言えることだ。自分の弱さ、ダメさを受け入れることができて初めて自分を理解したと言えるのではないか。私はもっと悩んだ方がいい。こんな自分でいいのか、好きであるべきなのか、嫌いになるべきなのか、正面から向き合わなければいけない。

 

 嫌いと言うことは辛い。対象が人なら傷つけてしまうだろう。だが、自分という人格を固めていくには嫌いも表明していかなければいけない。何を是とし何を否とするかは、人格を形成する重要なファクターである。嫌いという感情があるから、好きに価値が生まれるのではないか。選択する勇気を持つべきなのではないか。

 

 しかしこれは、どんなことにも事情がある、どんな人にもその人なりの考えがあるという私の信条と対立しかねない。表面的には許せなくても、なにか理由があるかもしれないと考えると、迂闊に判断できない。そんな風に生きてきたから、好き嫌いセンサーが働かなくなっているのかもしれない。何事にも自分の知り得ない裏があるのだから考えてもしょうがないという諦めが、心を鈍らせているのか。でもそれは考えることを放棄しているのと同じだ。私は私の心の軸で、世界を判断できるようになりたい。そのためにも、何が嫌いなのかをもっと考える必要があると思った。

 

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