何者でもない者の日記

旧タイトルは「法学徒って名乗りたい」。

男か女か

 私は子供の頃男になりたかった。性自認は女なので、ただ男に生まれたかったという願望だ。スカートは履きたくなかったし、「わたし」じゃなくて「おれ」を使いたかった。好んで汚い言葉遣いをしていたし、正座じゃなくて胡座をかいていた。

 

 どうしてそうなったのか。私には兄が1人いて、幼いころ触れる世界は男の子向けとされるものが多かった。仮面ライダーとか、ウルトラマンとか、戦隊モノとか。逆に女の子向けとされるプリキュアとかセーラームーンは見ていなかった(これはただ単にその時間寝ていたというだけであるが)。

 今でもそうだが、私はかなり周りに影響を受けやすいタイプである。好きなものや憧れたものに対して、気持ちが好きで収まらず、そうなりたい!と思う。そしていつの間にか思考や口調まで似てくる。なかなかにイタいヤツ。

 そんなんだから、テレビで見るかっこいいヒーローになりたくなった。人々を守る強い男。戦隊モノには女もいたが、だいたい5人中1人だ。しかもピンクの服を着て、ポーズも女の子チックなかわいい感じ。しかも主人公にはなれない。私の求める強くてかっこいいヒーローと取ってつけたような女性レンジャーには乖離があった。

 少し脱線するが、男の子向けと女の子向けという表現は適切でなかった。主人公が男の子か女の子で定義した方が的確である。現に私のように仮面ライダーを見て育った女もいれば、プリキュアを見て育った男の子もいるだろう。作品としては皆に開かれているべきである。だが、幼い子供にとっては自分と同じ性別の方が感情移入だったり自己投影をしやすいのだろうか。それともそれは性別によって役割が違うという価値観に基づく思い込みだろうか。同じ性別の人間と同じように行動する必要はないし、違う性別の人間と同じ行動をしてもいい。そもそも性別で行動を規定すること自体ナンセンスである。でも身体的特徴では大きく二分されているのは事実であるし、自分と同じような見た目の人間に共感するのは自然なことであるとも思う。

 

 話を元に戻す。先に小学校に上がった兄にくっついて、兄の男友達と遊ぶことも多かった。だいたい野球をしていた。友達の妹だからまあみんな受け入れてくれる。でも呼び方は「妹ちゃん」だった。兄の妹という立場でしかなく、私個人を受け入れてはくれていないという疎外感。私も男になれば私という人格を友達として認めてくれるんじゃないか。そういう思いもあった。人見知りかつ話し下手で、そういう思いを上手く人に伝えられなかった分、心の中のフラストレーションを吐き出せず、男に生まれたかったという思いだけが大きくなっていったのかもしれない。

 

以上が私が男に憧れを抱いた理由である。以下ではその思いがどのように変遷していくか、時系列に沿って述べる。

 

 中学に上がる時、制服のスカートが嫌だった。制服がない中学を探したりもした。しかし結局はスカートが制服で、女子率の高い中学に進学した。スカートは嫌だったのでいつも短パンをスカートの下に仕込んでいた。だが、中学に上がる時に順応のため性格を改変したのと、周りが女子だらけという環境から、服装として女の格好をする抵抗はなくなっていった。

 その頃は見た目がコンプレックスだった。髪は天パで不潔な感じだし、メガネだし、痩せてもないし、かわいくない。かわいいことが女の価値であると思っていたので、かわいさという評価軸から逃げるためにも男になりたかった。だから男っぽいキャラを作っていた、というかそれが自分だった。

 

 高校生になると、髪の毛の天パが落ち着いてきた。メガネを変えたり髪型を上手いことして、かわいくはないが別に普通、みたいな見た目になれると判明した。女としてもやっていけるかもしれないと思った。周囲も大人になってきて、かわいいだけが評価に繋がるわけではないという空気だった。夏は暑かったのでスカートの下に短パンを履くのをやめた。

 

 高校を卒業し状況は一変する。まず高校のクソ校則のせいでできなかった縮毛矯正をした。あんなに世界が輝いて見えたことはない。生まれたままの姿であるべきなどという妄言に私の6年間は潰されたと言ってもいい。加えてメガネからコンタクトに変えた。先日東大生はコンタクトにしろというツイートが炎上していたが、もし手っ取り早く見た目を変えたいならコンタクトにするべきだと思う(もちろん周りが「見た目が悪いから」という理由で強要するのは間違っている)。さらに大学に行くため化粧をすることになる。まだ男っぽいキャラで通していた(つもりだった)ので、化粧品を買うこと自体恥ずかしかった。社会に適応するにはそうも言っていられないので、後輩に手伝ってもらって化粧品を揃え練習した。この縮毛矯正・コンタクト・化粧で見た目が大分改善されたと思う。

 

 そして放り込まれたのが男子率の異様に高い文一ドイ語クラスである。周りがこんなに男だらけなのは人生初、しかも女子だらけの中高から進学したものだから衝撃は計り知れないものだった。こんな女でもなんだかんだちやほやしてくれる。だが逆にそれが気持ち悪くて、やめてくれ〜人間として扱ってくれ〜という思いだった。これは幼き頃兄の友達に妹ちゃんと呼ばれていた時の気持ちと同じだ。クラスの「女子の」ひとり、みたいな認識。いや本当にそう思われてたのかは分からない、私の思い込みの可能性も高い。弁明しておくとクラスの人は普通にいい人が多かった。今まで同年代の男子が少なかったので、あ、男とでも普通に喋れるんだなと分かった。女であることで苦労したことはあまりなかったが、男だったら変な気も遣われずすっと溶け込めていただろうかと思ったりした。しかし、それで男になりたいとは思わなかった。それでも女は女でいいかもと思っていた。少ないながらも女子のクラスメイトもいたし、楽しかった。男子と仲良くなるより女子と仲良くしたかったし、女子と仲良くなるには女子であることは有利な条件である。

 また脱線するが、性別で人間を区別することは私は構わないと思う。だって性別はその人の人格を表すかなり重要なファクターであるから。男か女かはともかく友達になりましょうとは私は言えない。もちろん差別はいけない。性別で不利益な取り扱いをすべきではない。そして様々な性は認められるべきである。だが個人が選択した性は、その人の人格の構成要素のひとつになり、その人を評価する基準のひとつになると思う。そう思うからこそ私は女を捨て男になりたかったのである。

 

 話を戻す。大学に入り「彼氏」もできた。なぜカギカッコかというと、彼氏・彼女と自分たちを呼称するのが嫌いだったからだ。異性間で交際してるんだから関係性は彼氏・彼女で間違いないんだが、なんか違和感がある。お互い好きあっていることこそが重要であって、彼氏・彼女という関係であることは言わば副産物のようなもの。だから彼のことを話す時は彼氏が、と言わず名前を挙げて話すようにしていた。彼氏と呼ぶのがのがちょっと恥ずかしかったというのもある。自分に女としての魅力なんざないと思っていたので、「彼氏」ができるなんて想像もしていなかったから。かなり拗らせてきた人生である。 

 「彼氏」といる時が自分が女であると一番自覚する時だった。相手が彼氏なら、自分は彼女、すなわち女。彼は私に女らしくしろとは一切言わなかったので、ひとえに私の中の認識がそうであったという話だ。いくら表面上男っぽく振舞ったり汚い言葉遣いをしても私は「女」なのである。

 

 今までの経験や学びから、別に見た目がどうであれ女でいてもいいのだと思うようになった。あぐらをかいてたって女であることは変わりない。女らしい仕草は女であることに必要ない。

 ここまで書いてきて、自分がかなりルッキズムに傾倒していたことが分かった。また、男女のステレオタイプに無意識のうちにとらわれていたと気付いた。私が子供の頃はまだ伝統的男女観が根強かったと思う。今はどうだろう。だいぶ破壊されてきているとは思うが、先日もテレビで「〇キロ痩せた美女特集!」みたいなのをやっていて、まだまだ変わるべきところは多いと感じた。それでもジェンダーは取り上げられることが増えてきている。一方でまだ問題にすらされていない差別・偏見もきっとあるだろう。既存の価値観を疑っていかなければならない。

 

異様に長くなってしまって自分でドン引きしている。こんなに書くつもりはなかった…最後まで読んでくれた物好きな方、ありがとうございます。

 

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