何者でもない者の日記

旧タイトルは「法学徒って名乗りたい」。

選択について

 私は何かを選択するということが苦手である。やるなら全部やる、やらないなら全部やらない。言うなら全部言う、言わないなら全部言わない。0か100かしかないみたいなことを、ブログのどこかに書いた気もする。どういうことなのかちょっと考えた。

 

 まず、前提として私は秘密主義である。基本的に他人に自分のことを知られたくない。自分を知られるのは弱みを晒すのと一緒だから。他人に舐められたくないというのが根底にある。

 そして、与えられたものから何かを選び何かを選ばないという行為は、私の内面を提示するのと同じである。私の中の優先順位、価値観、好きなこと、嫌いなこと、それらが何かを選択することで明らかになる。

 いや、問題は自分を知られることではないかもしれない。他人に分かられたくない、他人から考えられたくない、注目されたくない。それはたぶん失望されたくないの裏返しだな。失望されるくらいなら自分を隠し続けていたい。よく分からない存在なら失望もしない。押し付けられた基準に合わせて動くだけなら、それを遂行できるかどうかで評価が決まる。私の価値観で決めたことそれ自体が否定されることが私には耐えられないんだな。そうやって自分が否定されることから逃げている。他人からどう思われようと気にしないタイプだと思ってたんだけど、全然そんなことなかった。周りの評価にびくびくしてる人間なんだな。

 

 ちょっと外れるが、私は自己肯定感は低くない。自分では自分のことをまあそこそこのことはできる人間だと思ってる。でも、他人から認められる自信が皆無な人間なんだと思う。自分の中では自信があるけど、それが一般的に評価される自信はない。自分がではいいと思ってる、でもその「いい」に自信がない。自分の中の基準に適合させることはできるけど、基準の設定が適切か分からない。しかもそれでも割と満足できてしまう。自分の中でいいなと思えればもういい。本当に独りよがりで、内向的な人間だと思う。

 

 物事の選択より難しいのは人を選択することである。自分ごときが他人を選択するなんておこがましい、みたいな卑屈な考えが浮かんできてしまう。選んでくれたら嬉しい、でも自分は他人の選択に任せる。とても他人任せで無責任だなと思う。好きな人も嫌いな人もいるけど、異常値にならない限りほとんど同じような対応をしている。異常値に達したのは好きも嫌いも人生で片手で数えられるくらい。どちらにせよそれを伝えるのはめちゃくちゃ勇気が必要だった。たぶんこのスタンスは変わらないと思う。

 

 人生は選択の連続である。どんな些細なことでも選択を避けることはできない。私の人生は偶然の要因も多くあるが私の選択によって成り立ってきている。自分の選択に自信を持ちたい。

 

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